「泣かぬなら、泣かせてみせよう、ホトトギス」
で有名な豊臣秀吉には、実は、子供が3人居たって知ってました?
織田信長の四男”石松丸秀勝”を養嗣子としましたが、秀勝は18歳で病死、
茶々が産んだ次男”鶴松”は幼くして死亡し、
運よく成長したのが、大河ドラマでも有名な、あの”秀頼”だけだったのです。

ここまでは、歴史好きな人なら、誰でもご存知ですね。

子宝に恵まれなかった秀吉が、
有り余るほどの愛情を注いだ秀頼にも、
実は、3人の子供が居たことをご存知でしょうか?
「え?!国松と奈阿姫の2人では?」ですよね?

実は、かなり信憑性の高い隠し子が居るんです!

ちなみに、彼の長男”国松”は、わずか8歳の時に大坂城落城。
その後、家来に連れられて京都に隠れ住みましたが、
すぐ捕まり、処刑されてしまいます。
妹”奈阿姫”は、千姫の養女となったおかげで、
鎌倉東慶寺で出家した後、天秀尼として、その後の人生を過ごしております。

さて、3人目の子供に関してですが・・・
ある高僧が今わの際に言い残した言葉に、その理由があります。
高僧は、「自分は、秀頼の次男である。落城時は3歳であった」
と、言い残してこの世を去っているのです。

それと、処刑された”国松”が偽物だった説も・・・
処刑されたはずの”国松”が、実は処刑されずに生きていた?!
なる説があるんです。

秀吉の正室である高台院の兄の子である木下延由が、
豊臣国松として処刑され、本物の”国松”は、
その後、木下延由として、その人生を全うして生きたという説があるんです。

木下延由の父である木下延俊が亡くなる時に、
三万石の領地から、その3分の1にもなる一万石ものの領地を
四男である木下延由に与えようとしたこと、
彼の位牌には、幼名”国松”と刻まれていたこと、
明治維新を迎えた後、木下延由の子孫は、
なぜか、名字を豊臣に戻し、秀吉の子孫を名乗ったことから、
生き延びたのが、”国松”であったのではないか、とされているのです。

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