前回記事はこちらです!

Part1では、スプラトリー諸島のサンゴの生態系が危ないことを書きました。

Part2では、このことに関しての議論をするはずなのに、中国国民の多数派が持つ感情が、環境一筋で議論がしづらくなっているという話を書きました。

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領土問題については少なくともサンゴ礁を傷つける理由にはならないはずだと述べました。

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しかし、同じく、本来は環境問題とは関係のない、植民地の問題に関してはまだ洗い出していません。

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欧米や日本に対して侵略したなどと訴える前に、本当に中国自体は全く侵略しなかったのでしょうか?

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1. チベット・ウイグルに対しては本当に侵略してないの?

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まずチベットは、1723年から中国に侵略されています。

康煕帝の後を継いだ雍正帝は父帝の方針を一転し、グシハン一族の権限や権益をチベットから排除することをめざし、グシハン一族が本拠をおくチベット東北部・アムド地方の北部に位置する青海草原に1723年に侵攻、翌1724年までに、グシハン一族をすべて制圧した。雍正帝はグシハン一族がチベットの諸侯たちやチベットの各地に有していた権限・権益をすべて接収、80年間つづいたグシハン一族のチベット支配はほぼ完全に靴替えされ、グシハン一族が本拠地をおいていた青海草原と直属の青海ホショト部族は盟旗制、アムド地方とカム地方東部の諸侯たちは土司制によって清朝の支配下に組み込まれた。
康熙帝は、「グシ・ハンの立てた法」をチベットの正統な政体とみなし、ジュンガルのチベット侵攻に対する介入にあたっては、「ダライラマを擁するチベット・ハン」という旧体制の復活を支援するという建前にもとづいて行動したのに対し、雍正帝は18世紀初頭以来続くグシ・ハン一族の内紛を、懸案解決の好機とみなし、1723年、内紛の当事者ロブサン・ダンジン(中国語版、ドイツ語版、オランダ語版)を「清朝に対する反乱者」と決めつけ、 年羮尭(中国語版、英語版、ベトナム語版)を司令官(撫遠大将軍)とする遠征軍を青海地方に派遣し、グシ・ハン一族を一挙に制圧する。雍正帝はグシ・ハン傍系一族を屈服させ、彼らがチベットに有していた様々な権限や権益を略奪した。この攻撃によりグシ・ハン一族はチベット王権も喪失して王朝は終焉をむかえた。

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でも、そのときは満州人がやったんじゃないの?

確かにそうかも知れませんが、その後、今度は中国自体が1950年から始めているのです!

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1949年に国共内戦に勝利して、無宗教の社会主義国家中華人民共和国を樹立した中国共産党は、「チベットは中国の一部分」として、チベット全土の「解放」を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事行動を発動しチベットを軍事制圧し、17ヶ条協定により、チベットの主権を奪った。(「帝国主義侵略勢力のチベットにおける影響を順調に一掃して、中華人民共和国の領土と主権の統一を完成し(十七か条協定の序文より)」)その後、チベット亡命政府は中国共産党政府はチベットに住む人々に対する非常に残忍な弾圧や虐殺を繰り返し行なう事でチベットを抑圧支配し続けていると主張している。さらに漢人の移民を故意に実行し現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転していると主張している。

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そしてウイグルに関してもですが、こちらは1755年から侵略が始まってます。

1755年、清の乾隆帝は康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する。

出典加々美光行 『中国の民族問題―危機の本質』 岩波書店、2008年。ISBN 978-4006001940。p. 85

1757年2月、乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた。

出典『清史稿』に記録。今谷明 『中国の火薬庫―新彊ウイグル自治区の近代史』 集英社、2000年。ISBN 978-4087811889。pp. 98-99

1759年、ジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した。

出典加々美光行 『中国の民族問題―危機の本質』 岩波書店、2008年。ISBN 978-4006001940。p. 85

こちらも本土人自体、1949年に侵略をスタートさせてます。

1949年、国共内戦で勝利した中国共産党は中華人民共和国を建国すると、国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。この地域の中華人民共和国による併合後、民族名称はウイグル族(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。ウイグル族とは関係無いが、カザフ族、キルギス族などの少数民族が国内外で分離闘争を続けている。

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2. 元寇のときはどうだったの?

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元寇とは、モンゴルを中心とした、13世紀後半の日本侵略のことです。

2回とも中国が関わってます。

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具体的には、文永の役(1274年)と、

1274年(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[133]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した。

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こちらなんかは、幹部クラスで中国が関わってますね。

弘安の役です。

1281年(弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。

出典村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁

5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)・洪茶丘率いるモンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人(実数9,960人)の東路軍900艘が、高麗国王・忠烈王の閲兵を受けた後、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航。

出典『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二「忠烈王七年 五月戊戌(三日)、忻都茶丘及金方慶朴球金周鼎等、以舟師征日本。」 忠烈王七年四月癸未(十八日)の条「大閲干合浦。」

このときの惨状は次の通りです。

「去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、」

出典(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一八九六号)

この文書は文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だが、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書状にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたかは不明である。

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この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。

出典海老沢哲雄「元代奴婢問題小論」『社会文化史学』 第8号、1972年7月

元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)に献上している。

出典『高麗史』 巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年「(十二月)庚午(二十八日)、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。」

少なくとも、虐殺や虐待が行われていた可能性がありますね。

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当時の日本をのび太、モンゴルをジャイアンとすると、中国はスネ夫のような、卑劣なやり方で日本をいたぶっていたということになります。

3. ベトナムに対しては?

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実は、1000年近くも中国の植民地下にあったのです!

ベトナムは長い歴史の中、中国歴代王朝から繰り返し支配を受けた。紀元前111年から約1000年のも間、中国歴代王朝はベトナムを支配下に置いたが、938年にゴ・クェン(呉権)が白藤江の戦い (938年)で南漢軍を破って独立を果たした。

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一般的に、前漢の武帝が交趾郡、九真郡、日南郡の三郡を北ベトナムに設置した紀元前111年から、呉権(ゴ・クエン)が呉朝を建国した939年までの時期を指すが、秦の趙佗が建国した南越が北ベトナムを支配した紀元前2世紀を始まりとする場合もある。

出典西村「北属期」『新版 東南アジアを知る事典』、413頁

ベトナム人にとっては屈辱的な時代と捉えられており

出典西村「北属期」『新版 東南アジアを知る事典』、413頁

つ、ま、り、

自国の侵略、植民地化政策は棚に上げて、他国からの被害ばかり取り上げているということになります!

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これ、説得力ないですよね?

これを言うと、自分の侵略とよその国からの侵略は別問題です!という声が聞こえてきそうですが、

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侵略の歴史とサンゴ問題、そもそも関係がありません!

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(実は、日本が中国に侵攻したところでの虐殺の真相、史実がまだ解明されていないので、中国側の主張が間違っている可能性もあるという面もありますが、これ以上言うと、サンゴから完全に離れてしまいますので、省略します。)

スプラトリー諸島のサンゴ礁の生態系の問題を語るのに、随分と回り道をしてしまいましたね。。。

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次号最終回で、どうやって環境立国日本がスプラトリー諸島のサンゴ礁の生態系を守ればいいか、見てみましょう!

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続きは次号最終回です!

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トップキュレーターを目指しております。他に、これから活躍するであろう未来政治家、テレビにあまり出てこない芸能人、アーリーステージの起業家、その他将来性のありそうな人物を、独断と偏見で発掘し、繋げることも手がけております。
Amp. でライターをしたことがあったり、Curazyの記事作成の手伝いをしたこともあり、バイラルメディアのマスコミ化に努めております。

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