国民文学『こころ』

夏目漱石『こころ』といえば、知らない人はいないといってもいいほど、有名な近代文学作品です。
読んだことがない人でも、その名前だけは聞いたことがあるでしょう。
多くの現代文の教科書に抜粋が掲載されており、授業で学んだことのある人も多いはずです。

実はこの『こころ』、文庫本の売上冊数が最も多い作品の一つでもあります。
日本経済新聞の2011年8月31日夕刊に「新潮文庫 累計発行部数トップ10」が紹介されました。
それによると、夏目漱石の『こころ』は累計発行部数が堂々の第1位で、673万7500部となっています。
(ちなみに第2位は太宰治の『人間失格』で、657万4000部。この2作品が数十年にわたって部数を争っているようです)
まさに『こころ』は、国民文学といってよいでしょう。

登場人物とストーリー

読んだことのない人のために、ストーリーをかいつまんで説明します。

語り手の青年「私」は、鎌倉を旅行していたときに「先生」と出会います。
帰京した青年「私」は、奥さんの静と2人で暮らしている先生の家に遊びに行くようになりました。

帝大を出ながらも俗世間からはなれてひっそりと暮らす先生とその過去に、青年「私」は興味をもちますが、先生から自分の過去に関するはっきりした返答はありませんでした。
ただ、「時がきたら過去を全て話す」という約束をしただけで。

帝大を卒業した「私」は、父親が病気を患っていたこともあり、実家に帰省することになります。
それは明治天皇が崩御するのと同じ時期でした。
父の最期を見守る青年「私」のもとに1通の手紙が先生から届きます。
「この手紙が届くころには私はもうこの世にはいないでしょう。」の書き出しで始まった手紙には、以前先生が「時が来たら話す」と約束した、先生の過去が書かれていました。

先生が帝大生であった頃、下宿先の娘として知り合ったのが静でした。
二人は次第に恋心を抱くようになります。
その後先生は、勘当されて生活に苦しむ同郷の友人Kを下宿に同居させますが、Kもまたお嬢さんに惹かれていきました。
お嬢さんに対するKの恋心を告白された先生は、自分もお嬢さんに恋をしていることは言い出せず、苦悩します。
ついにKを出し抜き、お嬢さんの母親に、お嬢さんとの結婚を申し込んでしまいました。
先生がそれをKに告げられないでいる間に、お嬢さんの母親はKに娘と先生の結婚が決まったことを伝え、Kは頸動脈を切って自殺をしてしまうのです…。

明治時代の学制

現在の日本は、6・3・3・4制と言われるように、小学校6年間・中学校3年間・高校3年間・大学4年間という学校体系になっています。
6歳で小学校に入学し12歳で卒業、以下15歳で中学校を、18歳で高校を卒業、浪人や留年をしなければ、22歳で四年制大学を卒業することになります。

しかし、明治時代はそうではありませんでした。

文部科学省による学校系統図によると、明治半ばには、このような複雑な学校体系になっていたことがわかります。
まず男子と女子では高等小学校を出たあとの進路に違いがありました。
当時の中学校は男子しか通うことができず、高等学校や大学(帝国大学)も入学できるのは男子のみだったのです。
女子には高等女学校、そして教員養成機関としての女子高等師範学校がありましたが、履修内容も異なっていたようです。

年齢でいうと、男子ならば12歳で高等小学校を卒業、5年間の尋常中学校生活を経て17歳で卒業、高等中学校と帝国大学はそれぞれ3年間(学科によっては4年間)で、23歳で卒業します。
女子は12歳で高等小学校を卒業したあと、高等女学校に5年間通い、17歳で卒業します。
もちろんこれはストレートにいった場合で、病気などで入学が遅れたり、留年や浪人をしたりということも人によってはあったでしょう。
たとえば漱石自身、東京帝国大学に入学したのは23歳、卒業は26歳でした。

青年「私」の年齢設定

まずは、上・中の部分の語り手である、青年「私」の年齢から考えましょう。
登場人物の誕生日は一切わからないので、満年齢の正確な計算はできません。
便宜上、学年と年齢を一致させて考えることにします。
たとえば、高等中学校卒業時には17歳、というような形です。

青年「私」は、小説中で東京帝大を卒業しています。
(ちなみに当時の帝大は9月入学だったので、7月に卒業式を迎えることになります)
上記の学制に従えば、23歳で帝大を卒業しているはずです。
その卒業式には明治天皇が出席していましたが、それからすぐに明治天皇は崩御しました。
中の三章では、青年「私」が「ついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になった陛下を憶い出したり」しています。

これは史実とも合致しています。
明治45年7月11日の帝大卒業式に出席した明治天皇ですが、その時には既に体調は悪化しており、尿毒症を併発して7月30日に崩御しました。

ですから、落第などせずストレートで大学に入り、順調に卒業したのであれば、青年「私」は明治45年に23歳であったということになります。

Kとお嬢さんの年齢設定

続いてKとお嬢さんの年齢を考えてみましょう。

下の八十一章に、こう書いてあります。
大学2年の試験を無事に終わらせた先生とK、そして下宿先の女主人であり、静の母親でもある奥さんが次のような会話をしています。

我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後一年だといって奥さんは喜んでくれました。そういう奥さんの唯一の誇とも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。

出典 http://www.aozora.gr.jp

その後の夏休みを使って先生とKは房州に旅行します。
「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」
という有名な台詞も、ここで生まれます。

そして翌年の正月過ぎ、Kは自分の恋心を先生に打ち明け、先生が自分の気持ちを何もKに伝えないまま、Kは自殺を選ぶのです。

したがって、Kが自殺をしたのは、卒業を数ヶ月先に控えた、帝大3年の途中であったと考えられます。
学制から考えると、帝大卒業時には23歳になっているはずで、Kの享年は22歳~23歳というところであったと考えられます。
もちろん先生も同い年だったでしょうから、Kが自殺をした時には22歳~23歳、卒業時には23歳になっていたはずです。

そしてお嬢さんも、先生とKが帝大を卒業するのと同年に、高等女学校を卒業する見込みになっていましたから、当時の学制をふまえれば、17歳になっていたはずです。

先生は帝大を卒業して半年も経たないうちにお嬢さんと結婚します。
23~24歳と17~18歳での結婚、現代では早いように思いますが、当時としてはさほど珍しいものではなかったのではないでしょうか。

先生の年齢設定

さて問題は、明治45年に先生が何歳であったかです。
青年「私」が「先生」と慕う人物ですから、ある程度の年齢を重ねていてもおかしくありませんが、たとえば三十代であるのと五十代であるのでは、ずいぶん印象が変わってきます。

ここで、『こころ』の登場人物の年齢設定について論じた文章を2つ紹介しておきます。

明石智子氏「『心』の「先生」の年齢についての一考察(京都教育大学教育学部附属高等学校研究紀要 第59号 1996年3月)
秦恒平氏「『こゝろ』の「先生」は何歳で自殺したのか」(『東工大「作家」教授の幸福 1997年7月)

お2人の結論はほとんど重なっており、そのヒントとなる記事が、下の十章に書かれています。

東京の高等学校に通っている3年の間に、故郷に残してきた亡き両親の財産を、叔父に誤魔化された先生は、その全ての財産を処理し、二度と故郷に戻らない覚悟を決めて東京に再び出てきました。
明治27年(1894)に高等学校令が出され、高等中学校が高等学校となりました。
いずれにせよ修養年限は3年、このとき先生は20歳になっていたはずです。

まとまった財産を手にした先生は、学生用の騒々しい下宿を出て、素人下宿に住むことを決めます。
小石川近辺の駄菓子屋のおかみさんは次のような家を紹介してくれました。

それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校の傍とかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人(ぶにん)で淋(さむし)くって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。

出典 http://www.aozora.gr.jp

ここで注目されるのが、軍人であった一家の主人(これが静の父親にあたります)が日清戦争で亡くなったという、駄菓子屋のおかみさんの発言です。

日清戦争は、明治27年(1894)7月から明治28年(1895)3月にかけて行われた戦争です。
その戦争で亡くなった(日清戦争では戦死者より病死者が10倍も多かったので、病死だったかもしれません)ということですから、静の父親は明治27年か28年に亡くなったことになります。

未亡人が厩(うまや)などのある屋敷を処分して引っ越したのが何年だったか、そこに先の2論文は次のような推定をしています。

陸軍将校が日清戦争で亡くなった年は、早くても1894年である。未亡人が広い屋敷を売り払って母娘の二人暮らしにふさわしい小さい家に引っ越すのは一周忌の後とも考えることもできるが、やはり翌年の三回忌をすませてからと考えるのが妥当であろう。そうすると母娘の転居は1896年、「先生」が下宿した年が1年後の1897年ということになる。一周忌をすませた年と考えると、それぞれ1年ずつ早くなる。

出典前掲明石氏

激戦は主として明治二十七年の秋以降に集中したから、歳末ないし年初の辺を命日とすれば、厩もあって広すぎるほどの屋敷に住んだ上級軍人の妻子が、家を処分して引っ越せるのは、少なくとも一周忌、むしろ満二年目の三回忌過ぎと見ていい。おそらく「お嬢さん」の高等女学校入学と通学の便宜をみはからい、小石川に転居したのは明治三十年早春の頃であったろう。その「一年」後の夏、帝大生たるべき「先生」は、この軍人遺族の母子家庭に、運命にいざなわれ同居し始めた。

出典前掲秦氏

日清戦争で静の父親が亡くなったのは明治27年(1894)から明治28年(1895)。
未亡人である静の母親が屋敷を処分することができたのは、一周忌の後とすればその1年後、三回忌の後とすればその2年後となります。
さらにその1年後に先生が下宿に同居します。

先ほど述べたように、先生は明治27年(1894)に高等中学校から改められた「高等学校」に入学して3年で卒業した後、故郷に二度と戻らない覚悟で上京し、帝大に入っています。
下宿に同居したのは明治30年(1897)頃と考えると、静の母親が屋敷を処分して小石川に引っ越したのと計算が合います。

明治30年(1897)に帝大に入学した先生は、ストレートに考えれば21歳。
青年「私」に遺書を託し、明治45年に自殺を選んだのはその15年後。
36歳になっていたと考えることができます。

まとめ

以上、長々と説明してきました。

明治30年(1897)に帝大に入った先生は、静の住む素人下宿に同居、21歳。
明治33年(1900)に23歳でKが自殺、先生は帝大を卒業、静は17歳で高等女学校卒業。
明治45年(1912)に、青年「私」23歳で帝大を卒業、先生は36歳で自殺、静は30歳。

数年の誤差はあるかもしれませんが、『こころ』の登場人物のおおよその年齢はこのようになります。

皆さんの想像と合っていましたか?
それとも、随分違いましたか?

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日本古典文学の研究をしながら、高校の非常勤講師(国語)の仕事をしています。
趣味は読書(年間100冊読むのが目標!)と、プロレス観戦。
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